のどかで、家畜と人と緑だけが平穏を絵に描いたように、ただそこにある。
こんな田舎には何もない。

それが、大きな間違いと気付いた。
こんなことになるまで、それに気付かずにいた。

何もないんじゃない。
家畜と人と緑があった。
それが平穏でいられるのどかさがあった。





火の手を風上に見ながら、夢中で駆け抜けた。



木造の納屋や家に降りかかる火の粉は、水を被っても消えない。
舞い降りてきた火は、何かに触れるとぱっと燃え広がり
まるで花火のように、屋根の上を跳ね回り生きているかのよう。

舞い散る火の粉を避けて、猛然と目的の場所に向かう。



あの方向なら、まだ火の手からは間に合うはずだ。
そして、逃げるなら今しかない。




肌が汗でじっとりと湿り、ところどころ黒く紅く色を変える。
火傷と煤のせいだが、そんなことを気にする余裕なんかなかった。




のいるはずの屋敷が迫ってくる。
このままの勢いで部屋に入ってやるつもりだった。
がん、と勢いあまって体当たりをし、扉に鍵がかかっているのを思い出す。


中にいるは逃げられないように拘束されているだろう。
呼んでも無駄だ。



全身で扉にぶつかる。
でもいくら廃屋でも、体当たりで開くようなつくりにはなってない。


無我夢中で、窓を破った。
薄い板がきしんで割れて、ガラスの破片が飛び散った。
中に押し入るときに何ヶ所か引っ掛けたが、頓着しないで押し入った。



!!」



大声で呼んだ。煤煙と息切れで声がかすれる。




「ジャン・・・?」



は両手を後ろ手に固定されていた。
それ以外には何もない。

さるぐつわくらいされているかと思っていたから拍子抜けした。
だが、もともと村の人は手荒なことが得意じゃないのだ。



拘束されたまま大人しく座っていたが、俺を認めて驚いた顔をした。




「・・・・どうして?・・・」




信じられないというように瞬く瞳に、吸い込まれそうな錯覚を覚えた。
こんなときまで、この人はこんなにも綺麗だ。





荒くなっていた息を整えながら、少しだけを見つめた。
この場所で抱きしめた細く華奢な身体、白い肌と、ずっと眺め続けた小さな顔。



自分の選択が正しくても、正しくなくても、この先この人とは二度と会えない。



を見つめたまま動けなかった。
そんな時間はない、と頭で警鐘が鳴る。





――――――――――躊躇、してる?






それとも先立つ後悔もあるのか。
だって、選択を変える気など、塵ほどもないのに。





生きていて欲しい。
この世界の、どこでだって構わないから。
同じ空の下に、ずっといられるなら、もうそれだけでいい。





無言でに近づいて、縄をほどく。
誰が結んだのか知らないが、結構きつく縛られて、の手首は赤く跡がついていた。

痛ましさに、少し眉をひそめて、
でも、たった今みてきた光景にはかなわないと目をきつく閉じる。





全部の原因はこの人なのに。
憎めればいいのに。






「どうして・・・?ジャン、私・・・裏切り者なのよ」





静かな問いかけに、火の手が迫っているのも一瞬どこか別の世界のことのように思えた。
でも違う。目の前の人間がそれをした、裏切り者。そして最愛の人。




「変な火が攻撃して来るんだ。消火しようとする人が、大変なことになってる」

言いたいことはそんなことじゃないのに。




「・・・焼夷弾よ。特殊な油で発火させてるから、触れると一気に燃えて水でも消えない。
 川に逃げてもダメ。川の水の上でも燃え続けるから、呼吸しに顔を出すと火傷するわ。
 燃えやすいものに囲まれた田舎では、悪魔の武器ね」

まるで明日の天気予報でも話すみたいに、静かで何気ない言葉。




「火を消そうとしないで、逃げるしかないわ。消そうとしたら、飛び火にやられてしまうから。
 ・・・・・それを、聞きにきたの?」




ぼんやりと、焦点の定まらないうつろな表情。
は後悔してるのか?

なら何故落ち着き払って座っていられる?
今見てきた地獄絵図は、本の中の文字で空想されたものじゃないのに!






「うちで働いてたおばさんが、身体悪いのに動けなくて逃げ遅れたかもしれない。
・・・・助けに入った父さんも、火に巻き込まれたかもしれない」





ここに来る途中で見た、鎖につながれたままの犬。逃げる手立てはない。
納屋に置き去りの家畜も、もうすぐ植えるはずだった穀物の種も。

そして、昨日まで笑いながら話してた近所の人たちも。





「・・・・なんで?どうしてこんなことしたんだよ!!」





たまらなくなって叫んだ。

自分ひとりならいい。自分だけの痛みなら、耐えられる。
でもこんなのは嫌だ。こんな酷い現実に大勢が苦しむのは見たくない!



「復讐・・・」
うつろな瞳で、が言う。

「復讐・・・?」
震える声で問いかけた。








「憧れてた・・・きれいで、優しい先生だった。同じ女性同士、気も合って、尊敬してた。
私をたてに取られて、行きたくもない軍の施設に行かされるはめになって。
でも愚痴ひとつ言わないで、笑って『大丈夫だから』って・・・」

の目から涙が落ちる。



「そうやって守ってもらったのに・・・結局、こんな状態になっちゃった・・・」




「何があった?」



中佐から聞いていた話。でも、本人から聞きたかった。
それが一番の真実だと思った。




「人手不足の時期に優秀な人材を取られて、原因の私は病院にいづらくなったの。
でも、せっかく身をもってかばってくれた先生のために、簡単にやめたくはなかった。
・・・先生が帰ってきたとき、この場所にいたいって思ったの。でもそれが間違いだった。」


思い出すのが辛そうに、の体が震える。
「先生の説得に通ってた軍人の上官に、私口説かれていたの。・・・断ったら、・・・」


が身震いする。
思い出したくもない過去。





無理やり連れ込まれた。そこがどこか、もう定かに覚えてはいない。
何人もの男がそこにいた。でも一人ひとりの顔も、何も記憶にはない。

ただめちゃくちゃにされた。
恐怖と痛みと、いつまでたっても終わらない苦痛の時間に、死ぬ思いをした。
もしかしたら、そこで本当は死んだのかもしれない。

何日も閉じ込められて、酷い扱いを受けた後、ぼろきれのように放り出されたとき、
確かに以前の自分はどこにもいなかったのだから。


そうして外に出されたとき、以前の職は無断欠勤で失われ
監禁した犯罪者は前線に送られただけでお咎めはなく、事件自体が隠蔽された。




今でも、監禁された期間がどれほどか分からない。

泣いても、叫んでも、誰も助けてくれなかった。
どこかも分からない暗い場所。闇の中で、時間の観念も失われた。
好き勝手に弄ばれて、抵抗しなくても手慰みに殴られた。怖くて、抗うこともできなかった。

そんな恐怖の記憶から逃れられず、長い間ずっと苦しかった。









「・・・・私と、イシュバール人は、何も違わない」







ひどい話に、俺は何も言えずに黙っての話を聞いていた。
ショックだった。中佐は犯罪者が前線で死んだと伝えてやらなかったんだろうか?
たとえ死んでも消えない罪との傷を思って、忘れるのを待っていたんだろうか?



「どうして、傷つけたり殺されたり、大切な人を奪われたり、しなきゃいけないの?
理由なんか、何もない。そんなことしていい理由が、あるはずがないのよ」

は重ねたのだ。
踏みにじられた自分と、イシュバール人を。



「・・・・・・だから、裏切ったのか?」
「裏切ったんじゃない。私が裏切られたの・・・・同じ国の人が私を酷い目に合わせたの。
 私を監禁したのも陵辱したのも、イシュバール人じゃないわ」




が真っ直ぐに歪んだ、と言った中佐の言葉を思い出した。
俺も確かに同感だった。






目の前で虐げられていく、ついこの間まで同国人だった人。

それは、イシュバールの民だった。













俺は紙片をに手渡した。
が不思議そうに受け取ると、それを開いた。

仰天した様子で俺を見る。俺は何も言えずに、ただを見つめた。



「ジャン・・・・これ」
「中佐から預かった。ごめん・・・本当は、俺が守ってあげたかった」



悔しさを飲み込んで、を見る。
信じられないものをみるように、が俺をまっすぐ凝視する。



が裏切り者なのは、悲しいよ。そうする前に、俺に話してほしかった。
 一緒に、どうするか考えてあげられたのに・・・何にもできなかったかもしれないけど」
「ジャン・・・・私を逃がすつもりなの?」




田舎田舎とバカにしながらも本当は、俺が村をとても大事に思っていたことを知っていた
だから、の裏切りを知れば俺の恋も醒める。そう思っていたんだろう。
確かに俺は、への想いと村、二つの気持ちの狭間で今とても苦しんでいる。





それでも変わらない想いもあると知った。
ひと呼吸して、それを伝える。





「・・・・・・生きていて欲しい。に幸せになってもらいたい。
復讐なんか、これで終わりにしよう」





それがどれほどの覚悟で言った言葉か、は正確に理解した。
流れる涙が、それを如実にあらわしている。




「私・・・復讐がすんだら、死んでしまおうって思ってた・・・」
「それだけはやめてくれ」
「だって、とても辛かったの。生きててもどうしようもないくらい」
「それでも・・・・それでも、それだけはだめだ」


涙を流したまま、の瞳が瞬く。


「ジャン・・・・どうしてそんなに優しいの?まだ、私が好き?」
「好きだよ・・・・だから、辛くて仕方なかった。想いが通じるはずはないって思ってたから。
 こんなに辛いなら、なんか目の前から消えてしまえばいいって何度も思ったよ」



が優しい眼差しを俺に向ける。
俺は決定的になる言葉を躊躇せずに言うために、顔をそむけた。



「・・・・だから、もう終わりにしよう。それでも死なないで欲しい。勝手だけど」



優しい眼差しが瞬きする。
涙は光って宝石みたいに綺麗だ。
視界の端にそれを認めて、それでも俺は言葉を止めない。



「もう村では受け入れられない。この村で俺の嫁にはなれない。
 それどころか軍隊からも狙われて居場所なんかない・・・・中佐の所しか」



それを見越して準備した如際ない軍人。
それを悔しいと思うより自分を情けないと思った。



「顔・・・殴られた痕がある・・・私のせいね。窓ガラスの傷も・・・・・・痛い?」
「平気だよ。男なんだからこのくらい」



傷に気付いて眉を寄せる姿。もう二度と見られない。
覚悟ができたつもりなのに、心のどこかで嫌だと叫ぶ。
離したくない。失いたくなんかない。


俺にできることは一緒に逃げることだけ。
・・・・・・・でも、そしたら村はどうなるんだろう。


あの惨状は生半可ではない。
焼け出された後、男手の少ない村は、復興に人手が足りない。

そして村を見捨てて逃げても、逃げた先に平穏はない。
生活のあてもなく、いつ見つかるか不安な逃亡生活で、
大事な人を守ることもできない未来。どうやって愛する人を癒せるだろう。


結局何もかも、中佐がうわてだった。




選択を変えちゃいけない。
誰よりも愛する人の未来をこの手で守るために。




俺の決意を含んだ視線が、今度はそらすことなく真っ直ぐ彼女を見つめた。
潤んだ瞳がしっかりと見つめ返してきて、俺の意思を汲み取ったことを知る。






「分かったわ。ジャンの望みどおりにする・・・」
「・・・・・まっすぐ中佐のところへ行けよ。途中まで、送るから」
「いいわ。ひとりで」
「ダメだ。が約束を破らないか見届けてから、俺は村に戻るから。
 今からでもできることがあるかもしれない」
「ダメよ!あの特殊な油は危険なんだから!お願いだから真っ直ぐ教会へ行って」




すがりつくように俺の身を案じるを悲しい気持ちで見た。

焼夷弾の事を俺に教えたのは、その立場を考えればとても危険な賭けだった。
村の人が苦しむことを、本当はも望んでいなかった。




「俺の望みどおりにしてくれるんだろ?」
「するわ・・・中佐と、幸せになるよう努力してみる。あなたの目の前から消えるわ。
 だからお願い。あなたも自分を犠牲にするようなまねはやめて。私なんかを送らないで」







その言葉をきいて、思ったもうひとつの言葉はいえなかった。





辛くて、目の前から消えて欲しいと言った。それは本当の気持ち。
でも本当の本当は、別れてからいつ会えるかと、別れた側から会いたくなって


会いたくて会いたくて会いたくて、ずっと離れたくなくて




一緒にいたかった。





それが真実だった。