序章4






どうして私は、この世界でこんなに不自由なのか、
最初はいくら考えても理由が分からなかった。

あやふやな記憶は何一つここで生きてく助けにならず
言葉すら、聞き取りにくいことこの上ない。



そうして病院のベットに寝ているうちに、だんだんと思い出してきた。



そうだ。私は、ここの世界を知らない・・・



何歳で、名前は何で、どういう生活をしてきたか。
まず基本的な自分のことが思い出せなかった。


少しずつ明らかになる記憶も、靄がかかったようにハッキリしない。


両親がいた。あと、犬も飼っていた。
でも親の名前も思い出せない・・・犬の名前も。


不思議なことに、自分の名前も年どころか、自分に関わるほとんどが思い出せないのに
言葉や歴史や文化を思い出すことができる。ココではない世界の常識や、生活もすべて。


私が少し前まで使っていたのは日本語。
日本国民で、こじんまりした一軒家に住んでいた・・・家族と、兄と、犬もいて・・・
バーゲンとか・・・買い物が好きで友達とよく行った。なのに、友達の名前が思い出せない。




この世界に落ちる前、白い世界を通ってきた。
大きな扉。白い人影。・・・・何かを言われたけど覚えてない。





ここへは、その直後に、気付いたら、いた。

それが、今の私の記憶のすべて。




ここは平行世界。パラレルワールドというところなんだろう。
英語がメイン言語。知らない風俗、知らない文化、歴史。


自由に読めるように置かれた雑誌や新聞を見て、知らない言葉や名前がたくさんあった。
地名なのか人名なのかも、商品名なのかも分からない。
文章から、推察するのも一苦労・・・・。






「207号室さん。ご家族がお見えですよ」

白衣のナースに声をかけられる。
名前がないから、部屋の番号が名前代わり。

洋楽が好きで、英語は得意だった。
それでも戸惑う。意味は分かっても返せない。
よくわからないまま、『家族』を名乗る人物を見上げる。


見たこともない人がそこにいた。






あざやかに彩られた派手な家が立ち並ぶ一角。
黙ってついていくと、部屋に一人で待たされた。

すさんだような表情の女の人が何人か、
肌の露出の多いひらひらした服を着てお化粧している。

それも時間が過ぎると、ひとり、また一人と消えて、
残ったのは若草色のドレスで巻き毛の女性がひとり。



「・・・・ねえちゃん?」

小さく声がする。壁の戸板の隙間から見える小さな瞳。
少年は誰もいないと思って声をかけたに違いないのに
若草色の巻き毛が立ち上がって、戸板の向こうの少年を部屋に引き出す。


「あんた、いつも酒を持ってくる小僧じゃないの。怒られるよ、こんなことして」
「あ・・・見逃してよ。俺の姉ちゃんかと思って、声かけたんだ」
「誰のことよ?このお人形みたいな女の子のこと?」
「そうだよ!他に誰がいるんだよ」


若草のドレスが、巻き毛を揺らして私を見る。
私は少年に見覚えがない。他人の空似だろうと思った。


「・・・あんたを見ても、無表情のまんまよ。本当に姉さんなの?」
「間違いないよ!お願い、見逃してくれない?」

ほとんど泣きそうな声で少年が言う。
私は黙って一部始終を見つめたまま。



若草のドレスはため息をついて、視線を下げる。
「いいわ。ここにいてもいいことないもんね。見逃してあげるよ」

嬉しそうな少年に、ドレスの彼女は蔑むようににらみつける。

「言っておくけど、私が表に出てからにしてね。見なかったことにしてあげるだけ。
 みつかっても、そのあとの惨事までは責任取れないわ。わかってるでしょ?」


少年は大真面目に何度も首を縦に振る。
そんな姿に、優しい眼差しを向けたドレスの彼女は、本当は優しい人かもしれない。



「私がしてあげられるのは、黙っててあげることだけよ。あとは運試しね。
 でもそうね・・・・うまくいくように祈っててあげるわ。慎重になさいよ?」




彼女が表に出てから少したつと、いかめしい顔をした監視役が中を覗いて扉を閉めた。
先に戸板の向こうに戻っていた少年が無言で促すのに従い、戸板に滑り込む。

「監視の奴がすぐ戻ってくるだろうから、ここに隠れてて」


酒の入っていた空き箱を指し示されて、言うとおりに中に入る。
しばらくして辺りが騒がしくなって、その中をガタガタいわせながら通り過ぎる。

箱は手押し車に積まれていて、それをそのまま少年が押して、
箱の中に入っている私は、そうやって運ばれているのだと分かった。



どのくらい時間が経ったのか分からないけど
ふたが開いたとき、外はすっかり日が暮れていた。




「大丈夫?」

少年に支えられて、箱から出る。
背丈は私と同じくらい。たぶん160センチあるかないかくらいだろう。
みつめる視線が、涙ぐんでいる。まだ姉だと勘違いしてるんだろうか?



「姉ちゃんに似てるけど、人違いだった。連れてきてゴメン」

よどみない声は確信犯のよう。私は黙って首を振る。
むしろお礼が言いたかった。


どうして助けてくれたんだろう?


私は何も知らずにあそこに連れて行かれたけど、あのままならきっと酷いめにあってた。
生きていくには難しいとこだとなんとなく分かった。



「名前は?」

聞かれても答えられずに、首を振る。


「ないの?」


その質問に困って押し黙ると、少年はニコリと笑って言った。


・・・俺の姉ちゃんの名前を、あげる
 本当はもう、とっくに死んでるんだけど。おねえちゃんによく似てるから」



驚いて少年をみつめた。
部屋を見回すと、そこは少年の部屋。タンスの上の写真。
少年と隣にいる少女・・・あれがお姉さん?



髪の色も印象も、ぜんぜん違うのに・・・




似てるなんて、うそでしょう?
危険を冒してまで、助けてくれたのは・・・もしかしたら



「なんか、危険が迫ってもぼけっとしてるとこ、おれのねえちゃんそっくり。
 そんなんじゃ生き残れないよ。世の中危険がいっぱいなんだから」

泣き笑いみたいな少年の姿に、胸が痛んだ。
通じるか分からなかったけど、言葉をかけてあげたかった。


なのに言葉が出ない。


・・・いつから話してないんだっけ・・・


そうだ。ここの世界に降りてきたばかりのとき、日本語で『助けて』とつぶやいたきり。




「一緒に働かせてもらえるように、おばさんに頼んでみる。
 居酒屋やってて、たまに酒を他に融通したりするとこだけど、俺の親戚の店だから」


少年が気を取り直したように言って、階段を上っていく。
部屋を良く見ると、倉庫の一角のよう。すみのタンスが少年の持ち物?
だとしたら、あんまり良くしてもらってはいないんじゃないかしら・・・



すこししてすぐに、どたどたと階段を下りる音が響いた。
やせた女性が、少年より前からやってくる。


「まったく、なんて面倒を・・・裏の人間がどんなに根性悪くて怖いかって・・・
幼いからお前はまだ知らないんだ!こんなことがよそに知れてごらん?どうなるか!」

怒ったように、早口でまくし立てるこの人が、少年のおばさんなんだろう。
少年は必死の瞳で、おばさんに訴えている。


「おねがい!返すなんていわないで」
「言えるかい!こうなったら、隠し通すんだよ。お得意様をなくしちまう!
 ハサミもっておいで、この長い髪の毛を切っちまおう。男の子に見えるように」


言うが早いか、おばさんは手で私の髪の毛をすき始める。
少年がハサミを渡すと、問答無用でバッサリ切られた。


「服はお前のお下がりをおやり。同い年の男の子に見えれば・・・そうでなくても
 まだ幼い女の子に見えれば、人の目をごまかせるかもしれない。この子、名前は?」
。・・・・



おばさんが手を止めて、少年の顔をじっと見つめた。驚いたような眼差し。
口をあけたまま言葉もないかのよう。



「本名じゃないね・・・でも、それでいいか。
 あんたの姉さん代わりだね。じゃあ、今日からこの子は私の姪っ子」


少し涙ぐんだように言うおばさんは、再び手を動かして髪を切る。
セミロングよりさらに短く切られて・・・かなりショートな髪型にされた。



「これをかけて。伊達メガネだけど、ないよりマシ」



外出にはキャスケット帽を必ず被ることも約束させられ、
私は晴れて、職を得た。居酒屋の厨房での仕事。




言葉も未だに出てこない。いろいろ不安もある。
でもなんとかなる、と信じることにした。

この世界に来てから今まで、結局なんとかなってきた。


働いていれば、
・・・いつか助けてくれた青い制服の人にも会えるかもしれない。