序章5
薄暗い照明の店内は、少しくすんだ雰囲気で、そこそこ人も入っていた。
「これからの時間、もっと忙しくなるからね」
おばさんがそういって、古いエプロンを渡してきた。
黙って受け取って身に着ける。服は少年のお下がりで、顔には伊達メガネ。
さっき鏡を見たけど、なんだか今までの自分とは別人みたい。
おばさんが、じっと私を見つめる。
視線を返すと、おもむろに手を掴まれた。
その手をまじまじとみつめるおばさんは、眉を寄せてつぶやいた。
「まったく、どこのお嬢さんだったんだい?こんな綺麗な手をしてるんじゃ・・・
家事仕事や水仕事なんか、ろくにしたことないだろう。やってけるかい?」
確かに、手が荒れるほど必要な家事がなかった。
電子レンジも大活躍だし、上水道もガスも電気も整っていた。
洗濯機も掃除機もなさそうな、この世界とは違う。
まめにハンドクリームもつけてたし・・・
おばさんが倉庫へ酒を取りに行って、ひとり取り残された。
心配されてる・・・でも、ちゃんと働いて認めてもらえるように頑張ろう。
「おい、って言ったっけ?」
奥からおじさんが顔を出した。
「お嬢様なんじゃ、ピアノとか弾けるのかい?ひょっとして」
今の話を聞いていたらしい。
こわもての外見に似合わず大らかそうな声で話しかけてくる。
いちおう、頷いてみる。
でもほんとはピアノ・・・たしなみ程度に弾けるくらい。
おじさんは喜色満面で手招きする。
「これ、いらないって奴に思わずもらっちまったんだが、宝の持ち腐れだったんだ。
何か弾いてくれよ。これがなるのを見てみたいんだ」
そういって指差す先には、アップライトの古ぼけたピアノ。
近づいて、ふたを開ける。
白黒の鍵盤に触れると、ポーンと綺麗な音がした。
調律は完璧でないにしても、丁寧に使用されたらしく、十分いいピアノ。
椅子に腰掛ける。
気の早い客の何人かが、こちらに注目してるのが分かった。
何を弾こうかな・・・
何を弾いても、どうせこっちの世界では知られてない曲だから。
間違えても気付かれない。そう思えば気が楽で、思い切って指を鍵盤にのせた。
最初は指慣らしで、簡単な曲からがいい。
ベートーベンの月光第一楽章、そのまま第二楽章へ。
思ったより指が動いて、気持ちがいい。
そのまま第三楽章へおもいきって続けてみた。
第三楽章は、かなり早くて難しい。勢いで弾くからミスも出る。
E難度の曲。暗譜はできてるけど、たまに指が回らない。それがいつもの私のピアノ。
なのに今日は調子が良くて、久々に弾いたとは思えないくらい指が回った。
テンポが速く緩急や強弱がはっきりした三楽章。
第一楽章、第二楽章とはガラリと違った雰囲気。
お客さんがどよめいたのが分かった。
――――――――――気持ちいい!
ピアノ、ずっと辞めないで続けてよかった。
たまに間違うけど全然気にしないで、気持ちのままに弾いた。
「ちょっと!何してるの!!」
店に響くおばさんの声。
思わず指を止めて、声のほうを見る。
「ピアノなんて弾いてる場合じゃないでしょ!仕事、あるんだからこっちにおいで」
焦ったように呼び戻されて、不満そうに愚痴をいう客をあとに裏へ行った。
おばさんに手を掴まれて、奥に連れて行かれる。
いたい・・・
声が出ないけど、掴まれた腕がすごく痛い。
おばさんは必死の顔で、そんなことには頓着しない。
「無用心な子だね!表に出ちゃダメだよ!しばらくおとなしく、裏にいてくれないと」
例のお得意様のことを心配してるんだ・・・
確かに、ちょっと軽率だったかもしれない。
おばさんはため息ついて手を話すと、口調を緩めた。
「ま、分かってるけどね。おおかたウチの主人が言ったんだろ?
店が閉めてるときは、弾いてもいいよ。気持ちよさそうに弾いてたねえ」
優しいおばさんの言葉に、思わず顔がほころんだ。
それを見たおばさんが、驚いたような顔をする。
「まあ。口も利けない人形みたいな子かと思ったら・・・こんなにいい笑顔するんだね」
その言葉に、ますます笑ってしまったら
おばさんがつられたように笑顔になって、少し幸せな気持ちになった。
「この店は軍人さんが多いからね。も見たろ?青い制服。
まあ、着替えて私服で来るほうが多いけど。・・・・あんたの演奏好評だったね。
士官学校行く人は教養あるのが多いから、ピアノとか好きなんだろうね」
おばさんの言葉は早くてたまに聞き取れないけど
ここは軍人さんが多く来る店で、彼らはピアノがすき、というのはなんとなくわかった。
青い服の軍人さん・・・・
思い出すのは、ここではじめてあった黒髪の人。
それからずっと、裏で調理のお手伝いをすることになった。
心配していた料理も、イチから教えてもらった。
裏の仕事はきついけど、動いてるのはキライじゃないし
倉庫の隅に置かれた寝床でも全然苦じゃなかった。
倉庫は静かで、店の喧騒が聞こえてこない。
だから、少年は部屋をあてがわれてもこっちに入り浸りになってしまって、
結局タンスを持ち込むことになったんだと、後で分かった。
ここは、居心地がいい・・・
「。これ、着ていいよ」
少年が服を差し出す。
彼の持っているものはどれも、似たようなものが多い。
少年の服は、なんとなく英国の少年を思い起こさせるから、好き。
それに、けっして裕福でないのにいろいろ工面してくれる気持ちが嬉しい。
黙って受け取る。
本当はお礼がいいたい。
でも・・・・・発音とか、言葉とか、正しく伝わるか、まだ不安。
いつも喉元から出そうな声を、出せずに止めてしまう。
そんな私に、少年は優しく笑いかけてくれた。
そういえば・・・・
前いた世界でも、私は駅で外人さんに道を聞かれて同じような態度だった。
相手の言葉の内容や、なんて答えればいいのかわかってても、緊張で言葉が出ない。
そういう性格だった。内気で、最初の一言にとっても勇気がいる。
それじゃ、だめだよね。
最初の勇気は、自分から。
「・・・・・・・・・ありがとう」
小さくつぶやいた『Thanks』が正しく伝わったと分かったのは
少年の顔が輝いたから。そのまま服ごとぎゅっと抱きしめられた。
まだぎこちないけれど
少しずつ馴染むようがんばろう。
『このお店は軍人さんが多いから』
おばさんの言葉が、新しく勇気をくれた気がした。
